浄土宗とは?教えや歴史、葬儀や仏事のマナーをわかりやすく解説
更新:2023.06.29
浄土宗とは、日本の仏教宗派のうちのひとつで、その名の通り、人は誰でも阿弥陀如来に救われて極楽浄土に往生できると説きます。
平安末期から鎌倉初頭に活躍した法然によって始まり、浄土宗の寺院はいまでも日本全国で見られます。
この記事では、浄土宗がどういった宗派なのか、基本的な知識や歴史、葬儀や仏事、さらには浄土真宗との違いについても分かりやすく解説いたします。
浄土宗とは、どんな教えの宗派?
まずは、浄土宗がどのような宗派なのか、基本的な概要を押さえます。
ご本尊は阿弥陀如来
浄土宗のご本尊は阿弥陀如来です。
「阿弥陀」とは、インドの「アミターバ」や「アミターユス」という言葉を語源としており、それぞれ「計り知れない光を持つもの」や「計り知れない寿命を持つもの」を意味します。
阿弥陀如来については『浄土三部経』(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)に詳しくまとめられており、法蔵菩薩という修行者から阿弥陀如来という仏になる時に、次のような誓いを立てたことで知られます。
『私が仏となったなら、私を信じるあらゆる人々を救います。もしも極楽往生を信じて私の名前を称えたにも関わらず、浄土に往生できない者がひとりでもいたならば、私は仏になりません。』
阿弥陀如来という仏さまはすでにこの世にいるわけですから、上の誓いは逆説的に『私を信じ、南無阿弥陀仏を称えたものはひとり残らず極楽浄土に往生させます』と説いていることになります。
専修念仏と極楽往生
浄土宗の教えの根幹は、「専修(せんじゅ)念仏」と「極楽往生」です。
極楽往生を信じて一心不乱に念仏を称えることで、必ず阿弥陀如来が救ってくれると説きます。
阿弥陀信仰は、法然が浄土宗を立ち上げるはるか前からインドや中国でも広まっていました。
貧困や戦乱などの社会不安にあえぐ多くの庶民たちは、この世に生きることが苦しければ苦しいほど、阿弥陀如来の慈悲をありがたく感じ、極楽往生を強く願ったのでしょう。
浄土真宗との違い
浄土宗と浄土真宗。よく似た名前ですが、一体何が違うのでしょうか。
浄土宗の法然と浄土真宗の親鸞は師弟関係にあり、親鸞自身は生涯、自身が法然の弟子であることを自認していました。
その上で、親鸞は自らの思想を独自に展開していき、親鸞死後、親鸞を慕う者たちによって一大教団に発展していき、浄土真宗という今の形に至ります。
浄土宗と浄土真宗には主に次のような違いがあります。
●念仏重視の浄土宗と、信心重視の浄土真宗
浄土宗も浄土真宗も、阿弥陀如来の救いを信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることを第一義としている点では同じです。
その上で、浄土宗が念仏を称える「行い」を重視したのに対し、浄土真宗では念仏者の「信心」を重視します。
●出家した法然と、非僧非俗の親鸞
法然はもともと比叡山で出家した天台宗の僧侶でした。
自ら浄土宗を立ち上げたあとも出家者として生き、その後の浄土宗も出家仏教の伝統を残しています。
しかし、弟子の親鸞は肉食妻帯をして「非僧非俗」を宣言。
出家していなくても阿弥陀如来を信じれば必ずや救われるということを身をもって体現しました。
以降、浄土真宗には戒律はなく、そのため戒名ではなく法名が与えられます。
本来出家者たちは、世俗との関係を断ち、その象徴として髪の毛を丸めますが、出家という考えを持たない浄土真宗では、僧侶たちの有髪や肉食妻帯をよしとしています。
法然の生涯と浄土教の歴史
インドで始まった阿弥陀信仰
阿弥陀信仰(浄土教)の根幹となる『仏説無量寿経』は、紀元前2世紀ころのインドで成立し、龍樹(りゅうじゅ)や世親(せじん)といった高僧らによってインド社会に広がります。
出家者のように厳しい修行をすることなく、誰もがすぐに実践できる念仏の教えは、当時の庶民に広く受け入れられました。
その後、阿弥陀信仰はシルクロードを渡ってチベットや中国にも伝播し、7世紀の僧侶・善導の時に大きく発展し、これが法然や親鸞らによる日本における浄土教のベースとなります。
日本の浄土教
阿弥陀信仰(浄土教)は、飛鳥時代の頃にはすでに日本にやって来ていたと言われていますが、庶民たちには無縁のものでした。
当時の日本仏教界の中心地は天台宗の最澄が開いた比叡山で、浄土教をはじめ、法華経や、禅や、密教などを学ぶことのできる総合大学の様相を呈しており、数多くの出家者が仏教を学び、修行を積みました。
その中でも、特に浄土教を重視した空也、源信、良忍らは、比叡山で修行したのちに山を下り、独自の布教を展開していくことで、浄土教が徐々に庶民たちの間に広まっていくのです。
法然の生涯
法然は1133年、美作国(現在の岡山県)に生まれます。法然が9歳の時、地元の有力者だった父が殺害されます。
この時に残した「復讐ではなく仏道に生きよ」という遺言通りに、法然は仏門を叩き、13歳で比叡山に登ります。
法然が生きた時代は、疫病、飢饉、武家の台頭などによって社会不安が増し、仏教界も宗派内の対立も激化させ、比叡山も世俗化していきます。
そうした状況を憂いた法然は、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)を通じて浄土教の教えを知り、この教えを人々に広めるべく、比叡山を下ります。
京都東山の吉水の地に草庵を構えて、浄土経典の研究を深め、その教えを広めました。
庶民にも親しみやすい法然の教えは大変な人気を博し、庶民から貴族に至るまで、多くの人々が出入りしたと言われています。
のちの浄土真宗の宗祖となる親鸞も、そのうちのひとりです。
しかし、既存勢力からは強烈な反発を買い、比叡山や興福寺などから迫害を受け、70歳の時に四国に流罪となります。
やがて京都に戻りますが、80歳で入滅します。
最晩年に残した『一枚起請文』にもあるように、「老若男女、出家在家や貴賤の差などなく、阿弥陀如来の本願を信じて念仏をする者はどんな人でも極楽往生できる」ことを、身をもって貫いた生涯だったと言えるでしょう。
法然亡きあとの浄土宗
新興勢力である浄土宗は、長い間、弾圧に合い、その中で宗派の分裂を繰り返します。
しかし、江戸時代に徳川家康の支持を得ることで、教線を拡大します。
現在は、京都の知恩院を本山とする鎮西派と、西山派に分かれ、こちらはさらに、西山深草派(本山は誓願寺)、西山禅林寺派(本山は永観堂禅林寺)、西山浄土宗(本山は粟生光明寺)に分かれます。
現在は、日本全国に約7000の寺院と約600万人もの信者がいる、日本有数の一大教団となっています。
浄土宗の葬儀
浄土宗の葬儀は、故人を極楽浄土に導くために行われます。浄土宗の葬儀の特徴をまとめました。
授戒と引導
極楽浄土に送り出すためには、故人を仏弟子にしなければなりません。
まずは、故人に出家者が守るべき戒を授けます。
この儀式が「授戒」で、この時に授けられる名前が「戒名」です。
浄土宗では「引導」のことを「下炬(あこ)」と呼び、火葬の着火を模した儀式を行ないます。
こうして故人様を極楽浄土に導くのです。
焼香
浄土宗では特に焼香の回数を定めていません。
三毒(貪・瞋・痴)を消滅させ、三宝(仏・法・僧)を礼拝するためには3回が基本だと言われていますが、心を込めた1回でも構わないとされています。
浄土宗の仏壇・仏具
浄土宗の仏壇
浄土宗の仏壇には、中央に阿弥陀如来、右に中国浄土教の祖である善導大師、左に浄土宗の開祖である法然上人の絵像を飾ります。
そしてご先祖様の位牌を置き、お供え物を並べます。
浄土宗の仏壇は、木目の美しい「唐木仏壇」が主流ですが、最近では伝統に捉われないモダンな仏壇もよく選ばれています。
浄土宗の位牌と戒名
浄土宗の戒名の特徴は「キリーク」です。これは阿弥陀如来を表す梵字です。
そして鎮西派では、浄土宗の高僧である定慧が、自らに「良誉」と名付けたことから「誉」の文字を入れる傾向にあります。
西山派の場合、法然の正式名称「法然坊源空」という名前から「空」の文字を入れる傾向にあります。
上から順番に院号・誉号(空号)・道号・法号・位号です
(男性)◯◯院◆誉△△●●居士
(女性)◯◯院◆誉△△●●大姉
(男性)◯◯院◆空△△●●居士
(女性)◯◯院◆空△△●●大姉
浄土宗の数珠
浄土宗の数珠は大変独特で、2つの数珠を交差させた独特の形状をしています。
これは、念仏の数を称えるためです。
玉の大きさから、男性用と女性用で数が異なります。
比較的大きな玉の男性用は「三万浄土」とも呼ばれます。
主玉27個と20個、弟子玉10個と6個。これらをすべて手繰っていくと32,400回の念仏を称えられるようになっています。
一方、玉の小さい女性用は「六万浄土」と呼ばれ、主玉40個と27個、弟子玉10個と6個。これらをすべて手繰っていくと64,800回の念仏を称えられるようになっています。
浄土宗の家族葬は、広島自宅葬儀社にご相談下さい。
いかがでしたでしょうか。浄土宗の教えや成り立ち、葬儀や仏事について解説いたしました。
浄土宗の葬儀や仏事で分からないことがありましたら、どうぞ、広島自宅葬儀社にご相談下さい。
どんなささいなことでも構いません。お客様の声に耳を傾け、親切丁寧に、アドバイスさせていただきます。
この記事を書いた人
廣田 篤 広島自宅葬儀社 代表
葬儀業界23年、広島自宅葬儀社代表。厚生労働省認定技能審査1級葬祭ディレクター。終活カウンセラー。前職大手葬儀社では担当者として 1500 件、責任者として1万件以上の葬儀に携わる。実母の在宅介護をきっかけに広島自宅葬儀社を立ち上げて現在に至る。広島市内だけでなく瀬戸内海に浮かぶ島々から、山間部の世羅町、神石高原町まで広島県内あらゆる地域の葬儀事情に精通する広島の葬儀のプロ。身内の死や介護の経験、数々の葬儀を通じての縁から「死」について考え、文章にすることをライフワークとしている。